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芸術だ、ということになる。 たしかに、その限りにおいては、鉢植えは芸術である、といってもよいだろう。 少くとも、鉢に植えて、これを培い、花の咲くのや実の成るだけを楽しむ錐植物とは、あきらかに異なる領域のものなのである。 ー非芸術的な特質ーは鉢植えには芸術的要素がたしかにある。 しかし、たとえば、次のような笹張もある。 「芸術が独創性をもって成立するには、単に反社会的であるだけではなく、"自然弗をライバルとして、、薗然"を否定して、人工苗として見出すことである。 この芸術の反嵐然駒性格は反社会的性倍とともに、ひたすら内的感構裁現の強烈な進求によって、自然ではないもの、社会ではないものを実現しようとした。 中世芸術も、抽象芸術も、キュービズム、シュールリアリズムも同じ軌道を行くものである」。 勿論、これは鉢植え論として曹かれたものではないが、反臼然的性狢が芸術の属惟のひとつとして存在することは何人も否定できまい。 しかし、鉢植えの特性として、前鳳で撮摘したように取自然の手ざわり的を愛する願肉がある。 このへんの矛盾をどう考えたらよいのだろうか。 このことについて、私は、反自然的性播を芸術の属性、1つの傾向としてとらえていけばよい、と思う、そのような属性をもたない芸術もあり得るし、また、傾向の異なる芸術も存在していてさしつかえない。 鉢植えの芸術惟とは、あくまでも"薗然と人工のあいだ曲にある。 ところで、椴近、『鉢植えの祉会学』という待異な日本文化論を世に間うたは、鉢植えの芸術性について、いったい、どんな見解をしめされたであろうか。 |